50年前のネパール・ヒマラヤの記録 紹介 ①~⑬   1965年3月~7月


三三会の登山に関係して20年余になりますが、私のヒマラヤの話は殆どした事がありません。

今、随分と世話になったネパールの大地震を大変心配しています。

ネパールに親しんで頂きたい意味も含め、私のヒマラヤ遠征が今年でちょうど50年になりましたので、皆さんへ、このアルバムで披露させていただきます。

 

50年前、日本の山岳界はマナスルを成功させ、エベレストへ目標を向けていた時代でした。わが会(HCCAC)がヒマラヤ遠征隊を計画。その先遣隊として、一人で日本を発ちました。この遠征準備には冬山登山はもちろん、深田久弥氏をはじめ、ヒマラヤ体験者を度々に訪ねる情報集めからでした。  

              小林紘一 2015.6:29


 


①/⑬ 3月20日、神戸港出航。キャラバン開始

日本人私たった一人で、神戸港を貨客船・フランス船、ラオス号・29,000tで、高所用の遠征装備、食糧荷物、約100kgと共に出港して、一路ボンベイへ。初寄港地・横浜港に入港したとき、朝日新聞の記者が乗船し、ネパール登山禁止令が出たけど、どうされますかのニュース。よくあるインド、中国の国境紛争でした。ネパール政府から公式文書の登山許可証、パーミション持参でしたので、記者氏に現地ネパールで交渉すると。

この事件で良かったことは、大遠征隊が少なくなり、良いベテラン・シェルパ、ポーターを雇えたことです。私どものシェルパはエベレスト初登頂・英国ヒラリー卿お抱えのクンデ村・名門シェルパの一族シェルパ・ラクパです。若いけど大変気の利く、シェルパです。

 

②/⑬  キャラバン風景

重さ約35kgの荷を背に、はだしでみごとなジャンプです!   途中、橋がないところは渡渉したり、橋がある部落まで迂回しなければなりません。「郷に入っては郷に従え」です。

食事は日に2回。朝テント内でモーニングティーを取り、大体10時頃、朝と昼一緒のランチとキャンプ地での夕食の二回の食事です。キッチンポーターが食材供給と料理を作ってくれます。私は札束とカメラ、地図、記録ノートがメインのサブザックです。私はネパール語でサーブと呼ばれ、英語とネパール語でシェルパ・ラクパへお願いすれば、ポーターへも十分つたわります。

③/⑬  8000m級名峰マカルー、カンチェンジュンガが見え始めた。

<左>キャラバン12日目で,8,000m級、名峰マカルー、カンチェンジュンガが見え始めた。マカルーの左に今回目標だったピーク6(6,900m)がのぞいています。未練のあり、ありです。黙って挑戦できたのに。

 あれから50年経ち、今こそ言えますが、将来の日本遠征隊の信頼のために、涙を飲みました。

<右>赤いボックスは神戸港から貨客船に乗せ、ボンベイからボンドしてインドを汽車に載せ、ネパール国税関で荷物を受け取る。ネパール東側、キャラバン出発地、冷房のない板ベッドのホテル、熱い熱いビラトナガール駅・税関で待つこと6日間。毎日税関駅へ出向き「荷物は未だですか?」の日参。税関でこの赤いボックスに会えた時は至福の時でした。

真ん中のキッチンポーターの荷物上には生きたニワトリをくくりつけている、今晩の久しぶりの大ご馳走になる。<中>目がきれいに澄んだ現地の兄弟 

④/⑬ チャンの飲み納め

キャラバン16日目。人家がこの部落で終わり、チャン(地酒)が飲めなくなるからと、ポーター、シェルパが1ルピー、2ルピー出し合い、飲み納めをしようの申し出。気持ちが嬉しくてサーブ全部持ち。にしたら、チャン、ロキシー(焼酎:高度地だから最高にうまい)、各バケツ一杯づつをフーフーいって買ってきた。

<右写真>サーブ、シェルパ・ニンマ(昨年はマカルー・シェルパ)、ラゾ(チベッタン・シェルパ)。7名全員で歌あり、ダンスありの賑やかパーティ。翌日は久しぶりの二日酔い。後ろは雪煙の山。これからの米、ジャガイモ、ダルー等食糧も補給。道中、あまり話をしたことがないキッチンポーターが豆を炒りながら、手の平を合わせ、皮をフーフーと飛ばし私の手に3~5粒くらい、入れてくれていた。    

⑤/⑬地図にない道を、最終村シシカムの村民を雇い分け入る。

ヒマラヤは大きい。日本の感覚だと1~2日間のイメージだったが、7日を要した。キャラバン21日目ベースキャンプ入口に到着。巨大な岩陰をベースキャンプにして、食糧倉庫も兼ね、ホングホテルと命名。

二人のポーターは上のキャンプへ上げないで、(上キャンプより少し)温かい、安全なこのホテルに残留させることにする。

⑥/⑬  氷河はまるで氷の疑獄風景


高山病は苦業ですが、ようやくピッケルが使える箇所に来ることができました。異様な氷河を見のあたりに体感し、ショックでした。夢に見た世界一の素晴らしいヒマラヤです。

キャラバン道中では私のピッケルは土を掘ったり、土を掘ったり、かまどづくりにも使われて、びっくりしました。日本では考えられない事件です。これも「郷に入っては郷に従え」ですかね。

⑦/⑬ 最終キャンプ設営

5月28日、第3キャンプに、テント2基を6,000mに設営完了。シェルパから「私たちはここから寒くて上へ行きたくない」の申し出。給金の値上げの要求があり、一人1日2ルピー増しを約束した。すぐ北にチャムラン、お向かいにピーク41、メラピーク等連座。

⑧/⑬ 1965.5.30 正午、ラクパ・シェルパと6,300mピーク登頂。

アタックはモンスーン到来、食糧、燃料、の条件で今日がラストチャンスでした。朝6:30アイゼンを着け、C2を、シェルパ・ペンバ、ラゾに送られて出発。シェルパ・ラクパと二人でピークに立てました。感激の登頂成功!最高の日でした。

⑨/ ⑬ 久しぶりのベースキャンプは雪が溶け、シャクナゲが美しい。

BCに残留ポーター2名はとても元気で、私たちの成功を「ナマステ サーブ」と直立不動で合唱して喜んでくれた。下るにつれ、雪が溶け草花が芽を出している。もっと下にはツンマ(しゃくなげ)が赤い花をつけている。火を囲み、上のキャンプのこと、アタックのことを話し合う。

雪解けの水の音が快く聞こえる。ラクパが皆を相手にまるで、雪男を捕ったかのように大ホラを聞かせている。実に楽しいBCキャンプでした。明日はホングコーラを遡り、メラ・ラへ登る。

⑬/⑬シェルパのふるさと、ナムチェへ到着。

6月6日、インヌク氷河等の次回候補の山を偵察を済ませて、初めての人里、ルクラ着。

ドイツ学術調査隊に夕食のご招待をうける。スープ、パン、ソーセージ、ジャム等がご馳走され、胃がびっくり。久しぶりのジャガイモ、チャン、ロキシーをたらふく食し、飲む。

シェルパ・ラクパの実家、クンデに滞在。タメ村のラマ教の祭りへ一泊かけて参拝。その後、エベレスト街道をたくさんの峠を越えながら、ネパール首都カトマンズへ。カトマンズを見たいというラクパの弟ニンマ・シェルパ連れ、食糧を途中部落、部落で補給しながら、11日間掛けて6月22日、カトマンズ着。

 ※1978年、プモリBCからの帰り、シェルパ・ラクパの実家(クンデ)近くの村へキャンプ。ラクパのおめでたの奥さんが1本のロキシーを携え、夜道の長い距離をわざわざ見送りに来られ大恐縮。13年振りでした。

 

初めてのヒマラヤ遠征の成功は好天の幸運に恵まれ、シェルパ・ラクパをはじめチームのみなさんの協力はもちろん、当時、遠征協力をいただいた皆々様のお蔭です。50年経ちましてからも、改めてお礼申し上げます。


 この先遣隊が更に発展し、1978年プモリ7,145m(エヴェレスト西隣)に登頂できましたことも併せてご報告いたします。

最後になりますが、この度のネパールの地震災害の早期復興をお祈りしています。



1973.12.13~1974.1  HUACアンナプルナ学術調査隊 

☆シェルパ・ラクパ、奥さんと子供さん、シェルパ・ニンマ、シェルパ・ニンマ(カトマンズ)

1978.3.14~ HCCACプモリ遠征隊 ※プモリ、エヴェレスト

1979.夏、ラクパ・シェルパ(赤シャツ)、友人と日本・広島へ来訪。


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